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横芝光町ふるさと探訪
鬼来迎
鬼来迎写真   鬼来迎は毎年8月16日に行われ、全国でも大変珍しい仏教劇を一目見ようと、町内をはじめ県内外各地からも多くの人たちが訪れます。
(-_-) 釜入れの一場面 (-_-)

大棟梁大神
大棟梁大神写真  宝米字宮原、大地畑の南端にあり、祭神は経津主(ふつぬし)神です。九州に実在した武将尾形三郎維義に由来して神号が出たといいます。奉納神楽「面舞い」は1月10日のオビシャ(御武射)の日に、五穀豊穣と子孫繁栄を祈って境内で上演されましたが、現在は行われていません。

宝米の面舞い(民俗行事)
 宝米で、毎年1月10日のオビシャ(御武射)の日に、五穀豊穣と子孫繁栄を祈って大棟梁大神の境内で行われた神楽。全体が四景から成っています。
 第一景は狐が田起こし、畔ぬりをして豊作を願って踊る。
 第二景は鐘馗様(しょうきさま・中国で疫病神を追い払うという神)が厄病を退け魔ものを除き、 村人の無病息災を願って踊る。
 第三景は鐘馗様の宝珠を盗もうとする鬼が鐘馗様に退治される。
 第四景は阿亀(おかめ)と火男(ひょっとこ)が子孫繁栄を願って踊る―という筋立てになってい ます。
(現在は行われていません。)

明光院
明光院写真  宝米1204番地。集落の中央にあり、真言宗智山派で、阿弥陀堂所蔵の町指定文化財木造阿弥陀三尊立像がここに保管されています。境内には、両総用水事業の発案者で名村長といわれた鈴木伊平翁の頌徳碑と板碑があります。

鈴木伊平翁の業績(郷土の偉人)
 旧日吉村の名村長といわれた鈴木伊平翁は、宝米の生まれで、日露戦争中、のち陸軍大将、文部大臣になった荒木貞夫中尉の副官をつとめ、その交流は生涯続きました。
 翁は大正13年(1924)から二十数年、宝米市野原耕地整理組合理事長としてその職責を全うし、また昭和8年から十四年間日吉村長、16年には蔵書数千冊を日吉小学校に寄贈して学校図書室制度に先鞭をつけました。数多い業績のなかで特筆すべきことは、六ヵ年に及ぶ横芝東部耕地整理組合との紛争を解決して、両総用排水事業を完遂したことです。この事業は、翁の発案に基づくもので、これによって四市四郡十六ヵ町村が受益することになりました。

磨墨桜
磨墨桜の伝説について
 その昔、市野原の馬頭観音堂に、磨墨桜(するすみさくら)という桜がありました。梶原景時という武将が名馬「磨墨」をこの桜につないだ―と伝えられています。その後、この桜のまわりの草を病気の馬に食べさせると馬が元気になるといわれ、遠近から馬主が集まったということです。

(注)梶原景時は、はじめ源頼朝に敵対しましたが後降って戦功があり信任されました。

万福寺の椎の木
万福寺の椎の木の写真  町指定の天然記念物、椎の木があります。

篠本堰
篠本堰の写真  篠本堰は昔は土俵による土留堰でした。昭和10年頃河川改修にあたり、旧来の土留堰に代ってコンクリート枠木扉の堰が造られました。それが老朽化したため、昭和41年総工費一億三千万円で現在の伝道鉄扉の近代的な堰となりました。河川改修前には、川から農業用水を引くことで上流民と下流民の水争いが絶えず、明治27年(1894)、上流の久賀村(現在多古町)との争いに殉じた人の碑が、篠本堰竣工記念碑の傍に建っています。

日吉神社
日吉神社の写真  篠本字古川内にあり、祭神は大山咋(おおやまくい)神です。毎年8月1日、人々がこの神社に集まって、台風の被害を受けないように祈る「風祭り」の行事が行われましたが、現在は行われていません。昔は獅子舞いも行われたといいます。

日吉神社と風祭り(民俗行事)
 毎年のように夏から秋にかけて台風が襲来し、稲が水浸しになったり倒れたりする被害を受けることから、災害の少なからんことを願って催す民俗行事です。
 篠本二区の風祭りは、8月1日に村人が日吉神社に集まり、本殿のまわりを時計回りに一周して、拝殿と本殿の間に整列し、獅子と幣束を供えて「日吉神社の御前にて五穀豊穣、風祭を祈願いたします」と唱え、一礼して清めて終わります。以前は拝殿で獅子舞いを行い、見物の子供たちに西瓜を切って与えたといいます。(現在は行われていません。)
 風祭りは、宝米、小川台、台、小田部、木戸などでも行われましたが、現在は簡素化されたり、行わない地域もあります。
日吉神社と風祭り写真

新善光寺
 篠本二区475番地にあり、真言宗智山派の名刹で、県指定文化財の銅造阿弥陀如来および両脇侍立像があるほか、前庭には町指定の天然記念物「榧(かや)の木」があり、この木は弘法大師がこの地に巡行の折、種子をまいたものと伝えられており、主の白蛇がこの木に棲んでいるという伝説もあります。また俳人・再生坊の碑があります。

寒風城跡
 篠本字城、城台にあり、千葉氏の一族椎名氏の居城でした。現況は山林と畑ですが、昔の土塁と空堀りが残っており、付近には武器を作った鍛冶職人の住んでいたと思われる「鍛冶谷(かじやさく)」という地名があります。

スポーツ公園
スポーツ公園写真  日吉小学校の東側、大きな鉄塔が目印のこの公園は、広々とした敷地に緑がいっぱいの運動施設です。野球、アスレチック、ユニーク自転車、マレットゴルフなどのスポーツを満喫できます。
℡0479(85)1000

食肉センター
食肉センター写真  芝崎1390番地にあり、元東陽村長・伊橋武成氏の熱意と努力により、明治43年(1910)村営屠場として発足しました。その後歴代の村、町長に引き継がれて発展し、昭和43年現在地に移転して「横芝光町営東陽食肉センター」となりました。庭内には、獣魂碑と並んで功労者・伊橋武成翁の頌徳碑があります。

広済寺
広済寺(鬼来迎) 虫生483番地にあり、真言宗智山派の古刹です。毎年8月16日(以前は7月)には、地元保存会によって伝承されている仏教劇「鬼来迎」(通称「鬼舞い」)が施餓鬼会のあとで演じられます。これは昭和51年、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 鬼来迎(郷土芸能)

鬼堂の大杉
鬼堂の大杉と鬼の井(伝承)

 これは、虫生の鬼来迎に関係した話で『鬼来迎略縁起』には次のようになっています。

鬼堂の大杉 表紙写真 鬼面が天から降ってきたとき、城内にいた重役の妻が一子を連れて鬼面を見にきたところ、子供が鬼面を見てとても怖がった。妻は子供に、木を彫ったものだから怖がることはない、と青鬼の面を取って自分の顔に当てたところ、離れなくなってしまった。何日かすると妻の顔に角が生え、人を食うようになったため、堂のかたわらに生き埋めにし、墓標として杉を植えた。たま、白鬼の面が青鬼の面の後を追って飛んでいって井戸に沈んだことから、この井戸を「鬼の井」といい、この水を飲むと諸病が治り、乳の少ない婦人は出るようになるという。

 また、この大杉について大正8年千葉県編の『千葉県誌』には「周囲二丈三尺余(約7メートル)」の杉樹にして鬼堂杉と称す。千葉氏の族椎名安芸守の女萩原の墓標なりと伝う」とあり、これとは別に、この話を寺院近くにあった富農の家の嫁と姑の話だとしているのもあります。

 嫁と姑の間は、いつしか犬猿の仲となり、嫁は姑を驚かすために本堂から青鬼の面を持ち出した。姑の通り道に待ち伏せして驚かすことができたが、鬼面が嫁の顔から離れず、耳を切っても離れないのでそのまま生き埋めにされ、墓標として1本の杉が植えられた。これが鬼堂の大杉で、常に皮目から血液が流れ出るのを見ることができたという。

 この大杉は、後にそこに住みついた乞食の出火によって焼失してしまいましたが、耳を切ったという場所は今でも「耳切り坂」と呼ばれています。

○資料「鬼堂の大杉」(図書館に所蔵)

御大般若
御大般若写真  虫生地区で2月8日に行われます。パンツ一枚にさらしを巻いた若者たちが、広済寺本堂で新しい縄で縛りなおした大般若経の入った六つの大箱を担ぎ出します。その後法螺貝を吹き、両部曼陀羅の軸を持つ者を先頭に、ヨイサ、ヨイサの掛け声も勇ましく、地区内の無病息災を願って駆けまわります。屋敷の入口に「しめ縄」の張られた各家では、足袋はだしのまま縁側から玄関へ出て家を清め、家の中では軸持ちが家人の頭上の空を切り、続く一番箱を持ち上げて家人がその下をくぐったり、頭を差し入れることによって、無病息災を願うものです。

石芋大師堂
 傍示戸字石井戸の路傍にあります。昔、汚い旅僧に情をかけなかったため、食べていた芋が石になってしまった。その旅僧が弘法大師であったという伝説によって建てられたお堂です。道の反対側の木陰に、明治初期成就院を教場にした三育小学校の初代校長鈴木兼蔵の碑があります。三育小学校は、現在の南条小学校の前身です。

浄水場
 昭和30年代に、電化ポンプによる自家水道が普及しましたが、当地方の水質は必ずしも良好ではありませんでした。40年代に水源調査、49年3月に八匝水道企業団が設立され、房総導水路(栗山川)の水を買い入れて水道用水に使うことになり、宝米1751番地に取水場、傍示戸1026番地に浄水場がつくられました。52年7月から一部地域に給水、60年から全面給水となりました。

庚申塔
 傍示戸と宝米中島の境の路傍に、享保八年(1723)と刻したみごとな庚申塔があります。豊作福運を祈った庚申信仰の名残りです。橋場の児童公園脇には、町内で最古の宝永五年(1708)のものがあります。傍示戸の庚申塔の傍には道祖神が立っています。道祖神は「道陸神」、「塞の神」ともいわれ、外来の悪霊を防ぎ、旅行の安全を守る神、また男女の縁結び、和合を司る神として、辻や村境に立てられたものです。

庚申信仰について
 道端に、青面金剛が邪気を踏みつけ、その下を見ざる、言わざる、聞かざるの三猿、上部に日、月を刻したり、単に文字で「庚申」、「青面金剛」などと彫られた庚申塔があります。
 この庚申の信仰し、人の体内には三尸虫という虫がいて、60日に1度まわってくる庚申の日の晩、この虫が体から脱け出して天に昇り、その人の罪禍を天帝に報告する。このため、人は早死をするという中国の道教思想によるもので、村人はこの夜は眠らずに飲食して過ごし、訴えることができないようにして健康長寿を願うのが「庚申待ち」です。この信仰は、後に仏教の「青面金剛」と結びついて江戸時代に広まりました。
 町内には、計30基の庚申塔が残っており、白磯地区山柄では、60年に1度の庚申の年に庚申塔を海に向かって六十二間(112メートル)移動する「庚申下げ」という行事が行われます。

隆台寺
 小川台888番地の1にあり、真言宗智山派。古くは石室山光明院新善光寺と称しました。古代にみの地は石室郷といわれ、下総国匝瑳郡南条庄の中心でした。
 明治19年(1886)、村内の三寺を合併して隆台寺と改称したものです。県指定文化財の銅像侍立像と、門前には町指定文化財で明徳5年(1394)の刻字のある板碑があります。

小川台古墳群跡
 集落南方大地にあり、現況は山林と畑ですが、昭和49年に発掘調査が行われました。前方後円墳を含み総数16基の古墳が見つかり、それらは5世紀から8世紀前半の頃に築造されたものと見られます。出土品は小川台青年館、芝山はにわ博物館などに分散して保管されています。この古墳群を築造した豪族は、古代匝瑳郡に勢力をもった物部匝瑳氏と考えるのが有力です。

入定塚
 小川台字熊落台の山林中にあり、昔、宝蔵寺の住職宥照は派手な暮らしをする村人を改心させるため、衆生済度を願って生きながら埋葬されたというその塚で、町指定の史跡です。宥照の名は隆台寺の過去帳にあり、享保13年(1728)8月5日入定となっています。

岩室砦跡
 小川台字柳内1000番地にあり、土塁・空堀・古井戸などが残っています。椎名氏の祖五郎胤光の子福岡胤業の子、岩室五郎資胤がここにいたと伝えられています。

台、宗龍寺板碑
 宗龍寺は曹洞宗の寺で、入口に明徳3年(1392)と永享9年(1437)の2基の板碑があります。材質は黒雲母片岩です。

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